
昭和38年12月生まれ
日本家屋の屋根を装飾する鬼瓦。瓦を作る職人の中でも鬼瓦を作る職人を特に「鬼師」と呼んでいる。兵庫県では淡路瓦が有名だが、姫路城をはじめ多くの神社仏閣が残る姫路でも昔から瓦産業は盛んであった。
安川清泉さんは40歳代ながら、鬼師として多くの鬼瓦を製作。
文化財の復元にも携わっている。
瓦の歴史
瓦は日本では6世紀後半から寺院建築のために使われるようになった。江戸時代以降から一般にも広がっていったとされる。鬼瓦は、瓦の隙間から入る雨水を防ぐものが魔除けなどの役割を持たせ装飾性を高めていったと考えられる。
材料は田んぼの下の粘土層であったため、よい土が見つかれば、その土地の近くで窯を開いたとするのが自然だろう。寺や城があれば、需要も高まり発展して、産業となっていったといえる。もちろん現在は粘土専門の業者がいるので、各地の粘土をブレンドしたものを仕入れるのが普通である。
まず屋根の勾配を調べ、原寸の1.13倍で図面を描くことからスタートする。サイズは、あらかじめ乾く時・焼く時の縮む割合を考慮して一回り大きく作る。また土の種類や焼き上げる温度により収縮率が違うので土が変わればあらかじめ試し焼きをして縮みを確認する。そして描いた図面を粘土板に写し取る。
製作途中の鬼瓦を見て驚くのは、その大きさだ。普段、屋根の上にある瓦しか見ていないが、実際の大きさは縦55cm横50cmはゆうにある。建物に合わせて大きさもさまざまである。
鬼瓦の製作手順
写し取った粘土板から余分なところを鎌で切り取って裏返し箱形に立ち上がり、裏張りを付けた後、再度裏返す。これで鬼瓦の土台になるところの出来あがりである。
土台の上にはアールをつけた板を載せる。これが鬼の顔のベースとなる。この上に額、目、頬、口、角などの部分の土を盛って、手でならしながら形づくっていく。その後竹べらを使いながら、粗仕上げをおこない次第に鬼の顔を作っていく。
この工程が鬼師にとって、一番大切である。職人の入魂の仕事といえるだろう。安川さんも「粗仕上げが完成するまでは、なんとなくもやもやしたものがあるんです。脇目もふらず、一心不乱というか、ひたすら取組んでいます。この間は他のことは全く手に着かないです」と話す。粗仕上げが終われば、ホッと一息つける。粗仕上げのあとは、しばらくの間表面を乾かし、仕上げ磨きという工程。金べらを使って滑らかに整えていく。
乾燥
この後は、寝かしたまま乾燥させるのだが、2日ほどしたら起こして、裏が乾きやすいようにする。「風にあたるとダメなんです。直接風が当たらないように、布をかけてじっくり乾かします」乾燥しながら収縮しますので弱いところに亀裂が入ることがある。切れたところを見つけたら直す。直してまた乾かす。早いうちの亀裂は、容易に修復が可能で全く問題ない。段々硬くなっていき、可塑性が失われていく。この頃に出てくる亀裂は致命的で完全に修復できず焼いても残る。完全に乾いた状態を「白地」というそうだ。ここまでに約20日。大きいものだと30日かかり、製作時から7%程小さくなっている。「ここまでが私の仕事で、いかに白地までに無傷で仕上げるかが勝負です。」
焼成
さて、いよいよ最後の段階、焼成である。窯詰をして焼成にはいるが、「蓋を閉める時は手を合わせます」という。窯を開けるまでの5日間は「できるだけいいことをするようにしているんですよ。本当に神頼みです」と笑う。
時には、どんなに手をかけて仕上げても、焼成中に水蒸気爆発を起こすこともあるし、大きな亀裂が入ることもある。「そうなるとやり直しです」。この間は炎の中のため、手を下すことが出来ない。神頼みしたくなるのも無理はないのである。「白地は水に浸けておけばまた粘土になるが、窯から出てきた鬼瓦は長年の風雨に耐え、屋根の上から睨みを効かす。窯の中で高温に耐え、新たに生命が宿っているような気がしてならない」。
■制作手順
粘土を土練機に入れ粘土板を作る。


図面を粘土板に写し取る。

鬼の額や目、口などの部分の土を盛り、竹篦を使って粗仕上げをしていく。

仕上げ磨きを終えて乾燥中の鬼瓦。

いぶし銀の魅力
瓦の美しさのひとつに「いぶし」がある。江戸時代に発達した技法で焼成の最終過程で「いぶす」つまり、燻化させることによって、炭素の皮膜を形成させるのである。これにより、まるでいぶし銀のような艶を持つ瓦が出来上がる。いぶし銀の光沢は、ごく薄い皮膜(なんとわずか10ミクロン)に当たった、光の乱反射が作り出すものなのである。
松の割り木や生ガスを投入して、空気を遮断すると化学反応で炭化水素が発生し、炭素の皮膜が瓦に付着するのである。この過程を「コミ」という。美しい光沢を出すには温度が重要で、低すぎても高すぎても良い光沢がでない。現在はデジタルの温度計があるから、温度管理は楽だが、昔の職人たちは窯の中を覗き、炎の色や温もりを目や肌で感じて温度を見極め、火を止めるタイミングがわかった。「職人の勘もさることながら昔の人はすごいです。身を削り命がけで仕事をしています。」と安川さんは敬意をこめて語る。
鬼師への道
安川さんは神戸生まれだが、父の仕事の関係で幼少期から成人するまで倉敷市で育った。祖父が姫路市深志野で製瓦業をしていたため、帰省でこちらに来た時は、工場に出向き粘土で遊んだ想い出がある。瓦とのつきあいはその程度のものだった。ところが高校を卒業するころ、病気で長期入院をした。安川さんにとって大きな転機となったのである。
「人生観が変わりました。今まで気づかなかったこと、人の痛み、悲しみ、思いやりや感謝の気持ちを身をもって体験した貴重な経験です。病気をしなければ、この仕事をやっていなかったでしょう。色々考えた末、祖父のやっていた瓦を思い出したんです。そして鬼瓦を作る職人になりたいと・・・」
何人かの親方の下で基礎を覚えていった。10年ほどの修業の後、独立した。14年前のことだった。
安らかな川、清い泉
安川さんは、仕事では「清泉」という号を使っている。名字の安川に合わせて、山中の源流に、清らかな泉があるだろうという気持ちを込めて、恩師につけてもらった。邪念のない、欲のない境地に到達したいという思いがこもっている。

そして今
淡路瓦、三州瓦(愛知県)など、鬼瓦専門の産地では文字通り鬼しか作らない「鬼師」がいる。安川さんは、鬼瓦だけでなく「役瓦」という飾り瓦全般の製作に取組んでいる。つまり屋根瓦の中でプレス機械ではできないものはすべて引き受けている。
また復元の仕事も多い。復元する場合、見本を実測し原寸図を起こさなくてはならない。「思い出に残る複元は、平成15年度に復元製作した姫路城塩櫓の鯱でした。それは、天保6年に作られたもので168年もの間、屋根に上がっていたのです。銘も入っていました。新調した私の銘の入った鯱は、同じように何百年後かにいずれ役目を終える。誰の手によって作り変えられるのか? その時何を思うか? 想像するだけでワクワクしてきますが、1日でも長く屋根に上がっていてほしいものです」。
復元の仕事では、先人の作った見本を手元に置き作っていく。どういう道具を使って、どういう順番に作ったかといった技術的なことも勉強になるが、見たりさわったりすると、作った職人の心意気が伝わってくるという。どんな想いで作ったのか、その想い思いも汲み取って伝えていきたいと考えている。

復元した姫路城塩櫓の鯱


復元の参考にするための古い瓦に囲まれて。
さらに未来へ
備前と関わりの深い安川さんは、備前の細工物を研究している。これは江戸時代に献上物として使われていた置物で、安川さんいわく「鳥肌が立つような高い技術」を持っているそうだ。鬼師とは、へら使いが共通項である。技術を学ぶために手元に置き、製作技法を研究している。また、ライフワークとして、「円満」がテーマの、おかめひょっとこの夫婦像を作っている。備前焼風の温かい肌合いの焼き物で、じゃんけんしたり、毛糸を撚る仲の良い夫婦の姿が微笑ましい。
安川さんのライフワーク。おかめ、ひょっとこの夫婦像

備前は、戦後ろくろ物が主流になってしまい、細工物の高い技術が受け継がれていないのが残念と話す。

最近は小学校や幼稚園などで小さな鬼瓦づくりや、手びねりの置物、お茶碗作りなどの体験教室を開催している。「今後も続けていき、機械が作ったものと人の手で作ったもの違いを感じてもらえれば思っています」。
安川さん自身も小さい頃、粘土で遊んだように、子どもたちに、手作りの素晴らしさ、楽しさを伝えていくことが、未来につながっていくのだろう。

安川さんの工房には一枚の木彫りの額が掛けられている。仏師が仏像を彫刻するとき、ひと彫りごとに三度礼拝するということから「一彫三礼」という言葉があるが、これにちなんで、ひとヘラ入れるごとに三度礼拝する気持ちで作業を行うことを表しているのである。
「手を抜かず、心をこめて作りもっともっと技を磨いて、先人から受け継いだものを後世へ伝えていきたい」。
「一篦三礼」(ひとへらさんらい)
安川さんの工房には一枚の木彫りの額が掛けられている。仏師が仏像を彫刻するとき、ひと彫りごとに三度礼拝するということから「一彫三礼」という言葉があるが、これにちなんで、ひとヘラ入れるごとに三度礼拝する気持ちで作業を行うことを表しているのである。
「手を抜かず、心をこめて作りもっともっと技を磨いて、先人から受け継いだものを後世へ伝えていきたい」。

