2009年04月03日

彫刻師 大西一生(おおにしいっせい)

IMG_0705-g.png
大西一生
昭和12年9月20日生まれ
厚生労働省「現代の名工」
平成19年黄綬褒章受賞

姫路仏壇は兵庫県指定の伝統工芸である。江戸時代の末期から始まり、大正から戦前にかけて隆盛を極めた。比較的大型で、豪華・重厚な造りが特徴とされる。また、姫路は祭りも盛んな土地であり、屋台も職人の技が集結した工芸品である。この二つの工芸に欠かせないのが、木彫だ。大西一生さんは、仏壇彫刻と屋台彫刻を手がける、卓越した技を持つ彫刻の匠である。

ニマツに下絵を写し、粗彫り、小なぐり、仕上げ彫りと、細かく彫り進めていく。
仏壇はベニマツ、神社関係はヒノキを使う。
個人的に好きな木は仏像に使われる白檀だそうだ。

IMG_0851.jpg
IMG_0597.jpg
IMG_0603.jpg

はじまり
大西さんは姫路の農家の生まれである。小さい頃から、どういうわけか、かまぼこの板など小さな木切れが好きだったという。積み木のようにして遊んでいたのを覚えているそうだ。今でも小さな切れ端が捨てられないと笑う大西さん。木が好きでたまらない木彫の匠の「原点」といえるかもしれない。もうひとつ、忘れられないのが恩師との出会いだ。
山陽中学校の工作部の顧問、寺前奈良治先生である。部室には寺前先生がモナリザのような女性のレリーフ彫りの額を掛けていた。先生は最新の木工機械を導入し、生徒達は機械を駆使して色々な木工製品を製作した。大西さんは大好きな木を加工することが楽しくて、2年生で班長になると、さらに張り切った。中学3年生の時には、お母さんのために「両面まな板」を作り、商工会議所会頭賞を受賞。それが新聞に掲載されたこともあり、注目されて、卒業と同時に木工所にスカウトされたのだ。

修業時代
木工所では主に郵政省貯金局の発注で貯金箱などを作っていた。中学校時代の経験があるから、大西さんは機械を覚えるのも早かった。働き始めて半年ほどして、新しく入所してきた人がいた。その人が休憩時間に小さな板切れに絵を彫っているのを見た大西さんは、興味をひかれた。「それ、どこで覚えられるの?」と尋ねると「神戸や」との返事。そこで、矢も盾もたまらずその人が修業していた神戸に向かった。そこは神社や中国人向けの額などの製作所だった。「中学時代、寺前先生が持っていたレリーフ彫りの額がずっと心の中に残っていたんでしょう。これがやりたい!と思ったんですね」。こうして大西さんの「彫る」仕事が始まった。

しかし1年くらいすると、「こんなもんか」と思ってしまった。2年目になると「何か違う」と思うようになったという。「何が違うかわからなかったけど。これやなかったという気になってきたんやね」。ある時、店の仕事で大阪へつかいにだされた。そこは座敷欄間などを作っている工房で「そっちの方がいいな」と、移った。そしてまた、その店に出入りする人に、京都ならいくらでも彫刻の仕事があると聞いて、京都へ向かった。「仏像がやりたくてね。本場で腕を奮いたいと思ったんです」。しかし、京都の仏師の世界は厳しかった。本山仏師を最高位とする階級制があり、上に上がるのは実力だけではないことも知った。そして職人の中には「宵越しの金は持たない」といった雰囲気もあった。「そういった感覚が、ちょっと合わないと思って、地元に帰ることにしたんです」。昭和35年。大西さん、23歳だった。

独立
姫路では木彫の腕を活かして屋台彫刻をやろうと思った。しかし昭和35年当時、祭り屋台は衰退の一途をたどっていたという。祭りが一時中止になったこともあった。大西さんは、屋台彫刻で名を馳せた飾磨の松本三代目に弟子入り志願した。「銭はどうでもいいから、教えてくれ。この技を守りたい。どうかその技術を伝えてほしい」と。しかし「わたしは弟子をとらない、この苦しい世界はどうにもならない」と断られてしまった。そして別の親方を紹介され、仏壇彫刻を始めることになったのである。

仏壇彫刻から憧れの屋台へ
そんな時、たまたま「やっさ(屋台)やるか?」と誘われた。昭和38年のことである。「経験ないけど、ええかな」。「ええよ。男やったら、いてまえ」と言われてやることにした。それが妻鹿の屋台だった。屋台彫刻は狭間(さま)、露盤(ろばん)、正隅(しょうすみ)、脇棒(わきぼう)などで構成されている。大西さんは露盤を作り、1年目はよかった。素晴らしいと褒められた。だが、2年目、木は乾燥するから、ぼろぼろ落ちてしまったのだ。妻鹿の屋台は重い。そのため練り子は担ぎ棒を腕で支え、屋台を地面にたたきつけた反動で練り上げる「胴突き」という荒々しい方式で担ぐ。そこでけんかになった。「壊れたやないか!」と妻鹿の練り子たち。「乱暴にゆすったりするんやから、落ちたり壊れたりすることもある。そんなこというなら、鉄ででも作ったらええ」と大西さん。売り言葉に買い言葉である。これ以降、大西さんは自ら屋台彫刻を封印してしまうのである。

仏壇彫刻の世界
神戸、大阪、京都で積んだ経験に裏付けられた、確かな技術を持つ大西さんの腕は、仏壇彫刻でも発揮されている。仏壇は、木地師、屋根師、彫り師、金物師、塗師、蒔絵師、彩色師、仏具師という八職の職人が分業で制作する。それぞれの職人の高い技術が集まって、仏壇が作り上げられる。大西さんの仕事は、絵柄をおこすことから始まる。仏壇では花鳥風月や聖人の生涯などがモチーフとなる。仏壇にはノミあたりもいいし、やらこい(柔らかい)ベニマツを使う。ベニマツに下絵を写し、三枚に分けて彫りすすめる。何十種類ものノミ、彫刻刀を駆使し、粗彫り、小なぐり、仕上げ彫りと順に細かく彫り進めていく。繊細で緻密な作業である。1点制作するのに、約1ヵ月かかるという。

弟子
「わたしの号、『一生』は『一つに生きる』という意味で、弟子の一人がつけてくれたんです。『親方のために考えたんや』と話してくれて。しかし彼は、間もなく亡くなってしまったんですよ」と残念そうに話す。その人も含め、これまでに5人ほど弟子を取った。位牌の彫り師になったり、神社関係の彫刻をしている人もいる。ご主人の看病でやめたが、女性もいたそうだ。最近も大卒で入門したいとやってきた青年もいたが、「今はもう、お断りしてます。この世界は、絶対こうと、教えることができないんです。個人差もあって、何年やったら一人前ということもない。基準がない世界なんです」。
そして何より、現在は仏壇のほとんどが中国やベトナムで製作されているため、日本では、なかなか注文がこないのである。

再び屋台彫刻
屋台彫刻から離れて30何年以上も経った平成4年。あの因縁の妻鹿が依頼に来た。最初は断ったのだが、資料館に展示するというので引き受けた。渾身を込めて彫った。その後は、次々と依頼が舞い込んで、これまでに9台の屋台彫刻を仕上げた。
「屋台をやりだすと、大衆と祭りができるという喜びがある。仏壇は一軒の家のためだが、屋台は色んな人がやってきては、ああだこうだというのがまた面白い」と大西さん。「一番のハイライトは、祭りの前の入魂式をして、外へ出る時やね。町の人たちが待ち構えていて、『ヨーイヤサー』と声を上げる瞬間は、死んでしまいそうなほど嬉しい。あの気持ちは何人といえどわからないでしょうね。サブイボが立ちますよ。今はそれにハマってしまってます」。

前衛か伝統か
さまざまな彫刻を経験した大西さんには、新しいスタイルを創りたいという願望もある。しかし伝統を受け継がないといけない、という気持ちもあるという。表現とは、何なのか。
「例えば雲をどう表現するか。伝統の中で雲の彫り方は決まっているわけです。抜けたいけど抜けられない。ずっと考えているんやけど。それに我々の仕事は、寺や神社に納める仕事ですから、伝統を無視することはできないです」。
一度美術展に出品したことがある。しかし賞を取ったのは、技術もなく、奇をてらったような代物だった。こんなものが「芸術」と持ち上げられることに、疑問を感じ、それ以来、美術展に出品するのはやめた。美大へ何度も足を運んで、聴講したこともある。「毎日が問いですよ」。「本心は、仏像をやりたいと思ってます。仏壇とは関係なく、厨子に入れて、個人で拝むための仏像彫刻。そのときが一番楽しいです」。

十種類ものノミ、彫刻刀の数は、一、〇〇〇本をくだらない。
もちろん特注もあるし、譲りうけた明治時代のノミも混じっている。
明治時代の道具は、使いやすいし、切れ味もいい。

IMG_0815.jpg
IMG_0680.jpg
IMG_0725.jpg

道具の手入れにも、こだわりがある。
小さな彫刻刀の刃はそれぞれアールが違うので、砥石は全部自分で、
専用のものを作るという。仕事場の片隅に、専用の砥石がずらりと並ぶ。

IMG_0720.jpg
IMG_0849.jpg
IMG_0846.jpg
IMG_0650.jpg
大西さんは今日も彫り続ける。ノミを打つ音が響く仕事場に、流れるのは津軽三味線だ。「仕事中は言葉がないほうがいいからね。三味線の音は落ち着くんですわ」。忙しい時は一日中工房にいるが、集中するのは夜。仕事はやはり孤独だが「引退? 考えたことはないね。手が動く限り、彫り続けたい」と大西さんは笑った。
IMG_0859.jpg

IMG_0673.jpg
posted by レポーター at 00:00| 仏壇・屋台彫刻師